古賀市立図書館の父 薄 恕一(すすき じょいち)
慶応2(1866)年12月19日~昭和31(1956)年11月7日
糟屋郡
近くの谿雲寺の寺子屋で読み書きを習う。
十五歳のとき、西南戦争でお尋ね者となり身を隠した父を探しに行く旅で医師に可愛がられたことをきっかけに、医学を志す。
明治20(1887)年、母とともに知人を頼って大阪へ行く。
書生として苦学するも、二年後、大阪の谷町で薄病院を開業。
一貫して「貧乏人は無料、生活の出来る人は薬代一日四銭、眼を洗うのは二銭、金持ちは二倍でも三倍でも払ってくれ」を通し、人情味のあふれる人柄であった。
また、無類の相撲好きで、怪我をした力士を無料で治療したり病院と自宅の間の中庭に土俵を作って稽古させたり、ときには小遣いをやり可愛がった。
その面倒見の良さから、いつの間にか元気な力士も「タニマチ」と言い、慕ってくるようになったという。
その「タニマチ」が相撲の人気とともに全国に広がり、現在でも相撲界で贔屓にしてくれる人、後援してくれる人などを指す言葉として使われる。
医学以外にも、大阪府議会議員を7期28年を務めるほか、看護学校、商業学校を設立するなど、政治や教育に大きな功績を残した。
医学を志すにあたり、勉強するための本を調達する苦労を知っていた恕一氏は、大正12(1923)年、席内尋常高等小学校(現・古賀東小学校)敷地内に薄図書館を建設寄贈する。
当時、村立の図書館はまだ珍しく、昭和8(1933)年、文部省から表彰されている。
この席内村立図書館(薄図書館)が現在の古賀市立図書館の前身であり、恕一氏は礎を築いた人である。